2024年12月24日 聖誕節燭火礼拝 式順・説教
2024年12月24日 聖誕節燭火礼拝 式順・説教
〇黙 祷
〇招 詞 マタイ(마태복음) 60章 1~3節
〇讃 頌 讃頌歌 109 (キャンドル点火)
〇祈 祷
〇交 読 文 交読文 119 (聖誕節[1])
〇讃 頌 讃頌歌 116
〇聖書奉読 マタイによる福音書(마태복음)
2章 1~12節
○讃 頌 讃頌歌 120
〇説 教 「小さな星の導き(작은 별의 인도함)」
〇祈 祷
〇讃 頌 讃頌歌 122
〇祝 祷
※ 説教映像をYouTubeでご覧いただけます。
【 2024年 12月 24日 聖誕節燭火礼拝説教 】
聖なる夜、クリスマスの夜を迎えました。父なる神さまと主イエス・キリストから、恵みと平安とが、皆さまの上に豊かに降り注がれますようお祈り致します。
さて、クリスマス物語というのは、暗い夜の中から始まります。ベツレヘムの貧しい家畜小屋の飼い葉桶の中に寝かされた幼子イエスさま。このお方がお生まれになった時に、夜空には星が輝いていました。野宿をして羊の群れの番をしていた羊飼いに天使が現れたのも夜のことでした。神さまの栄光が闇の中に照り輝きます。クリスマスは光と影の物語なのです。
先ほど讃美歌(120番)でも歌いましたように、この救い主の誕生を告げる星が夜空に輝きます。マタイ福音書の2章には、はるばると東の国から占星術の博士たちがこの星をたよりに、黄金・乳香・没薬という宝物を持って救い主を拝みにやってきたと記されています。博士たちはおそらく持っていた全財産をこの旅の準備とこの捧げ物の準備のために使い果たしたに違いありません。それぐらいこの旅は彼らにとって重要な旅だったのです。
彼らの旅は夜の旅、星の光を確認しながらの旅でした。同じ時刻にどの方角に星が見えるかで進むべき方向を確認しながら、何ヶ月もかけてはるばると旅してきたに違いありません。山あり、谷あり、川あり。もちろんその時代には道や街灯が完備されているわけではなかったことでしょうから、ランプを灯しながら、足下を気遣いながらの旅でした。博士たちと呼ばれているくらいですから、彼らはかなり年配の人物であったはずです。慣れない道を行く旅は厳しいものであったことでしょう。また、その旅がどれくらい続くのか、いつ目的地に辿りつくことができるか、果たして本当に救い主にお逢いすることができるのか、など、彼らの胸には不安や迷いもあったことでしょう。
しかし、彼らは、救い主の誕生を信じ、救い主にお会いするために、旅に出たのです。彼らの旅は星の導きにすべてを委ねての旅でした。旧約聖書の創世記の中には、「信仰の父」と呼ばれた父祖アブラハムが神さまの呼びかけに応じて「行く先も知らないで旅立った」という記事がありますが、彼らも同じでした。旅支度と黄金・乳香・没薬のために全財産を使い果たしての後先を考えない旅でした。生きて帰れるかどうかも分からない命を賭けた旅だったと言ってもよいでしょう。
何がそのように彼らをうながしたのでしょうか。そのような旅に出たのはやむにやまれぬ思いがあったはずです。彼らは社会的にも高い地位を持ち、不自由なく暮らし、人生を謳歌していたはずです。それでもその心の内にはある種のむなしさを感じていたのかもしれません。詳しい説明は何もありません。しかし、この星こそ生の本当の意味を与えてくれると彼らは信じたのです。この星を追うことが人生の一大事であると考えました。だからこそ、すべてをそのこと一つに賭けて旅立ったのです。
私たちはどれほど充実した生活を送っていても、本当の喜び、本当の人生の意味を求めて、それまでのすべてを後にして出発しなければならない時が、私たちの人生の中にはあるのだろうと思います。星の導きにあったように正しい方向に私たちは旅してゆかなければならないのです。
9節10節に「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた」(マタイ2:9-10)とありますが、彼らはその星を見て人生の意味を見出したのです。
「黄金、乳香、没薬」という宝物は、彼ら自身の占星術のための道具であったという解釈があります。もしそうであるとすれば、彼らは自分の古い生き方をすべて捨てて、幼子キリストにすべてを差し出したとも理解できます。
いずれにせよ、ベツレヘムに着いた時の彼らの喜びはいかに大きなものであったことでしょうか。きらびやかな宮殿ではなく、貧しい家畜小屋の、しかも飼い葉桶の中に寝かされている幼子を見たときに、驚かされたかもしれません。
しかし、彼らは星の導きの通り、ユダヤの王と出会うことができた!その喜びに満たされました。旅の苦労が報われただけではありません。生きていてよかったという喜びが溢れてきたのです。そのような至福の瞬間を味わうことができた者は幸いと言わねばなりません。
さて、この博士たちの物語は私たちに何を告げているのでしょうか。
「オリエンテーション」という言葉がありますよね。よく知られた言葉です。会議やセミナーなどで最初に持たれるあの「オリエンテーション」です。全体の趣旨や方向づけやゴールを示すものです。広辞苑によるとオリエンテーションとは「ものごとの進路・方向を定めること。また、それが定まるよう指導すること。方向づけ。進路指導」とありました。実は、私たちの人生においても、この「オリエンテーション」が必要なのです。私たちがどこに行こうとしているのか、最初に明確に示してくれる、この「オリエンテーション」が必要なのです。
実はこの「オリエンテーション」という言葉は「オリエント」(日の出の地、東)という意味の言葉から来ています。語源的には「オリエンテーション」とはあるものをきちんと東に向けるという意味があるそうです。
(教会も本来であれば正面が東を向くように創られています。実際の方角とは別にこの聖卓の方向を東と呼ぶ習慣があります。東は太陽が昇る方向ですよね。太陽すなわちこの世を照らす光である神さまを向く、といった意味なんでしょう。)
それが、いまでは、先ほども言いましたように、方向づけるという意味になったようです。
何が、言いたいかと言いますと、クリスマスは私たちに人生の生きるべき指針を示してくれているということです。東方の博士たちは、星の導き、星の方向付けによって、自分たちの行くべき道をただひたすら歩き、旅をしました。
東方の博士たち、東方というのは、当時の世界の最先端を行く、文化・科学の中心です。それこそ、神さまに近いところと考えられいました。そんな彼らが、小さく輝く星の光に導かれて、自分の行くべき道を歩んだのです。
この星の導きは、東方の博士たちだけではなく、すべての人間が置かれているのです。この方向に私たちが生きるべき真実の道があります。
「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われた方に身を向けて、人生を歩んでゆくことが求められているのです。
その時に、私たちはどのような闇の中にあったとしても、悲しみや苦しみや行き詰まりや死や絶望のただ中にあったとしても、この光の方向に私たちの本当の命が備えられているのだとクリスマスの出来事は私たちに告げているのです。
ただ、星の導き、クリスマスを通して、神さまが与えられたしるしというのは、星の光のように真に小さなものかもしれません。クリスマス物語に登場する人や場所である「マリアとヨセフ」「ベツレヘム」「飼い葉桶」「羊飼い」「星」、これらは、この世的に見れば、何の価値もない小さなものだったのです。これが「神さまの導き、しるし」とは思えないようなものです。ですから、よく分からないというのが、多くの人の思いです。よく分からないから不安を覚えます。ヘロデ王や祭司長たち、律法学者たちがそうでした。まあ、ヘロデ王は少し違った意味で不安を覚えたようですが、「新しい王」の誕生を聞いて、自分の王座を奪われることが不安になったのでしょうが、その不安が幼子の多くの命を奪うという殺戮へと動かします。エルサレムを中心とするイスラエルはまさに暗闇の中にあったのです。
その暗闇の中に、星の小さな光がありました。博士たちを導いたものは、エルサレムの誰も顧みなかった、このかすかな星の小さな光でした。ところがこの小さなもの、かすかなものが、先立って進み、立ち往生し途方に暮れていた博士たちを、主イエスさまの下へと導いたのです。神さまは小さく、目立たず、微かなしるしを用いて、私たちを救いへと導いてくださるのです。
皆さん、東方の博士たちは、この星の導きの下に、新しく人生の冒険を始めました。
「光は闇の中で輝いています。そして闇はこれに勝たなかった。」
一年で一番夜が長い冬至の時期に、光の到来を祝うクリスマスが置かれていることにはまことに深い意味があります。
この救い主の誕生を告げる星の光がお一人おひとりの歩みを導かれますようお祈りいたします。アーメン。