2025年1月1日 新年礼拝 式順・説教
2025年1月1日 新年礼拝式順・説教
〇黙 祷
〇招 詞 申命記(신명기) 4章 39~40節
〇讃 頌 讃頌歌339
〇信仰告白 使徒信条
〇祈 祷
〇交 読 文 交読文 94 (新年礼拝[2])
〇讃 頌 讃頌歌 550
〇聖書奉読 コリントの信徒への手紙 二 (고린도후서)
4章 16~18節
〇説 教 「見えないものに目を注ぐ
(보이지 않는 것을 주목한다)」
〇祈 祷
〇讃 頌 讃頌歌 300
〇献 金
〇交 わ り
〇頌 栄 讃頌歌 6
〇祝 祷
※ 説教映像をYouTubeでご覧いただけます。
【 2025年 1月 1日 新年礼拝説教)】
「見えないもの目を注ぐ」 Ⅱコリント 4章 16~18節
皆さん、新年、あけましておめでとうございます。今年も宜しくお願い致します。
今年は、干支で言いますとへび年だそうですが、余り干支には興味がないので、詳しいことは分かりません。自分が寅年だということぐらいと、小学生の時に学校で覚えさせられましたけど、ね、うし、とら、う、たつ、み、・・ここぐらいまでしか覚えてなくて、今年は、覚えている最後の、巳年(蛇年)ですね。へび、と12種類の動物の名前が付いてはいますが、本来、動物自体には意味がないそうで、正確な干支で言いますと、「乙巳(きのと・み)」と言うそうです。
本来の干支は、十干(じっかん)と十二支を組み合わせた60を周期とする数詞だそうで、この60進法が時間とか方位に用いられているものです。それによりますと、今年は先ほど言いました「乙巳(きのとみ)」に当たり、この乙巳には、爆発的な変化が生じると古くから言われています。
牧師が干支にちなんで、言うというのもどうかとは思いますが、皆さん、お一人お一人にとっても、また、広島教会にとっても、良い意味で、大きな変化、大きく成長出来る一年になればと願います。
さて、今年はどんな一年になるでしょうか。私たちにはこんなふうになったら良いなぁとかいう希望があります。しかし、それと同時に不安もあります。
私たちは例年、新年には平和に穏やかに過ごせる一年になることを願い求めるわけですが、そのように祈る背景には不安があるからだと思います。毎年必ずと言っていいほど、思っても見ない色々なことが起きます。昨年は、一月一日に能登半島地震が起こりました。それから一年が経ちましたが、未だに、復興の目処も立っておりません。今年も何が起きるのかわかりません。私たちには過去の経験から先を予測する力はありますが、見通す力はありません。だから不安になるのです。
でも、キリスト者である私たちがわかっていることは、どのような困難な状況にも神さまが共におられるということです。
私たちは、先週に行われたクリスマス礼拝・聖誕節燭火礼拝で、イエス・キリストの誕生により神さまの到来が始まったこと、そして今私たちは神と共に歩み始めていることを確認しました。神の御子はベツレヘムに生まれました。その誕生は羊飼いたちや東の国にの学者たちに示され、彼らは救い主を見るために出かけて行きました。
そして、ついに出会った救い主は、まさに彼らそれぞれの心の内に生まれたわけです。言いかえれば、救い主は旅路を歩む私たちの中に生まれるのです。それは決して落ち着いた中に生まれるわけではないということです。しかし、救い主に必ず会える、そしてお会いすることができた。この確信こそが平和に繋がり、私たちの歩みの土台になっていくのです。
今日、私たちは、新しい一年の歩みを始めました。そんな私たちのただ中に、神さまが共におられ、常に神さまの御言葉が与えられているということを確認しながら、希望をもって一年を歩みだして行きたいと願います。
今日は、「見えないものに目を注ぐ」と題して、説教させていただきますが、その前に一つのことを問いかけたいと思います。
皆さんは、恐らく新年の抱負を考えられたと思います。それはどのようなものでしょうか。恐らくその抱負というものは皆さんにとってそれぞれの出来事があり、大切にしたいこととして考えられたことだと思います。
しかし、その抱負は時々、思いだけでもっていてもすぐに消えてしまうことがあります。思いというものは、見える形にして表すことで初めて継続することとなります。行いこそがその思いを継続するために大切なことです。
例えば、信仰生活も思いだけではなく、具体的な行動にすることが継続的な営みとなります。見えるものというのは、そういう意味でとても大切なものです。
ところが、パウロは今日の聖書個所でこう言っています。「見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」。見えるものは一時的なものであり移り行くものである。本当に大切なものは見えないものであるということは、確かにその通りだと思います。行動よりも原点である「思い」や「信仰」こそ大切であるからです。
でも、そうは言っても、見えないものだけを信じて生きていくことはなかなかに大変なことです。希望を持っていたとしてもそれを保ち続けるのは困難です。
むしろ、それが見える形でやってきたのが救い主の誕生であるクリスマスと言えると思います。
それでは、ここでパウロが言おうとしていることは何なのでしょうか。実はパウロがここで言おうとしている「見えるもの」とは、私たちの心の内にある希望を消してしまうような多くの困難のことを指しているのです。
今日の聖書個所の冒頭に「だから私たちは落胆しません」とあります。落胆しないとは、やる気を失ったりしない、諦めたりしないという意味の言葉です。でもこの言葉が最初に来るということは、この手紙を書いているパウロには恐らく落胆してしまってもおかしくないほどの苦しい現実があったということでしょう。このまま続けていくのがしんどい、挫折してしまいそうになることが時にあります。「衰えていく外の人」と言うのは、年毎に衰えていく私たちの肉体のことだけではなく、この社会の中で他者との関係や様々な出来事の中ですり減らされている私たちの命のことです。私たちもパウロ同様に、様々な環境の中で常にストレスを受けたり、心が疲れたりしてしまう世の中に生きています。でもパウロは、そんな中でも落胆はしない。決してあきらめない。決して、私たちの都合の良いようにいく社会ではないけれど、決して挫折したりやる気を失ったりすることはないと言うのです。
どうして、そんなことが可能なのでしょうか。パウロは続けます。
それは外なる人は衰えていくとしても、「内なる人」は日々新たにされていくからなのです。「内なる人」というのは、ただの自分の心のことではありません。イエス・キリストにあって生かされている自分のことです。イエス・キリストが私たちと共にいてくれるということ。このキリストがどんな時も私たちがどんな状況にどんなにすり減らされたとしても、私たちを支えてくれるということです。
これが私たちのいのちを守るためにとって決定的に大切なことなのです。
そして、この方が共におられることを信じた時に、わたしたちの艱難は、それがたとえどのようなものであったとしても、それは一時的のものであり、すぎゆくものとなるのです。その艱難はイエス・キリストが共におられる限り、私たちの命を失わせるようなものにはならないのです。
そこには、絶対に失われることのない希望があるのだ、ということをパウロは教えています。私たちは目に見える苦難にばかり心が動かされてしまいますが、しかし、だからこそ、パウロは見えないもの、つまり見えないけれど共におられる神さまに目を注ぎなさいというのです。
でも、そうは言われても、見えない神さまが私と共にいると言われても、どうしてそれを信じることができるでしょうか。そのように言うだけでは多くの人は信じられないと思います。
また、私たちもたとえ一度は信じたとしても、その困難が長引けば長引くほど信じ抜くことは難しいことだと思います。これはある意味で仕方のないことです。むしろ、人間は見ないと信じられないものだから、神さまはイエス・キリストを見える神の形としてこの世にお送りになったのです。
旧約聖書を読むと、人はいくら預言者が言葉で神さまの存在を伝えようが、自分が見なければ信じられない姿をあからさまに現しているのです。でも、この事実は、見えない神さまを信じたいと思っても、信じ続けるのは困難であるということを明らかにしています。だから、目に見えるものは大切なのです。
しかし、私たちの目に見えるものというのは、私たちを励ます一方で、私たちの心をくじくこともあります。でもそのような時、目には見えない神さまが共におられるということを信じることで、私たちは歩むことができるようになるのです。
そしてその時、一人の人の歩みは多くの人の希望の光になって行くのです。ここで、まさに目の前にある絶望的な状況に、神さまが共におられることを信じて、立ち向かった一人の人を紹介したいと思います。
それはペシャワール会の中村哲さんのことです。中村哲さんは2019年12月4日に狙撃されて亡くなりました。その日から、もう5年経ちましたが、彼がアフガニスタンやパキスタンで始めた事業は今も生き残っています。
中村哲さんのことは、ご存知の方が多いと思いますので、多くは触れません。彼は当初地域の人々の医療活動に当たっていたわけですが、次第に地域の人々の病気の原因が食糧不足と栄養失調であったことに気付くことになりました。人々の生活を環境から変えないと、病気は減ることがない。彼は自らメスを持つ手を重機を操る腕に代え、荒れ地に水路を作るかんがい事業を始め、農地を回復させていきました。本当に人々の健康的な生活を支えるために必要なものはクリニックではなく、生活環境の整備であると思ったのです。
思うは簡単、言うも簡単、でも、実際に行うことは困難を極めたと思います。技術もなく、仲間もいない。機械もなく、資金もありません。目の前には中央アジアの荒れ果てた土地が広がっています。水路を作るなんてまるで夢物語、想像を超える無茶な計画であったと思います。恐らくみんなに「やめとけ」と言われたと思います。でも、彼はその計画をスタートしました。周りの人は冷ややかに見ていたそうです。でもそのうち次第に人々も彼の本気さを知り、共感するボランティアが現れ、ついに水路を作ることができました。そして、荒れ果てた大地に緑が戻ってきたのです。
目に見えることに従えば、それは不可能なことだったと思います。しかし見えない神さまが共におられることを信じて、彼はこの事業を行っていくことができたのではないかと思います。まさに荒れ地に河を通すこと。人々の生活、いのちを守るために、自分にできることを行うこと。これが、見えない思いがなす見える行い、そして、これが人々の命を生かすことに繋がっていきました。そして、それは、まさにイエス・キリストの歩みに倣うものであったのです。
これは見えるところだけに目を注いだ結果ではなく、見えないところに目を注いだ結果だと思います。私たちは見えるところだけを見ると、困難に挫折してしまいそうになります。でも、夢や希望を持ち、必ずや神さまがそれを導いて下さるということに目を向ける時、必ず新しい道が開かれていくのです。
皆さん、私たちにも困難な状況はあります。でも、神さまはそのようなときこそ共におられます。見えない神さまに目を注ぐことが大切なのです。何故かと言うと、まさにまず初めに神さまがちっぽけで何も見えないような私たちの命に、目を注いでくださっているからなのです。
私たちには、ペシャワール会の中村さんのようなことは出来ないでしょう。それでも、そのような私たちに対しても神さまは、「私はあなたを愛している。私はあなたのためにその命を惜しまずに与えたのだ」と言ってくださり、御子イエス・キリストを示されるのです。そのときに気付くのです。「あぁ、神さまは私たちに必要な恵みを与えてくださっている。私たちは無力ではない」と。
神さまは、私たちに、困難に立ち向かっていく知恵と勇気をお与えくださっているのです。神さまは私たちに「落胆しないように」と期待しておられるのです。私たちの内なる人は日々新たにされ続けているのです。
マルチン・ルターは、「たとえ明日世界が終わるとしても、私はリンゴの木を植える」と言い、人は希望によって生きていくということを示しています。私たちもまた、自分に与えられた思いを大切に、この一年、神さまに、見えない神さまに目を注いで歩んでまいりましょう。